靴底感覚

――竹内幸哉の研究日誌――

教育評価・ルールメイキング・公正世界信念 【過去ログ整理】 2021.07.08

先週「教育評価とルーブリックの可能性を考える」と題してオンラインカフェをしたのだが、話題の中心は多面的評価をどう教科に組み込むかという高校の指導現場の話。
従来からの取り組みとの整合性を保ちつつ、しかも組織としても個人としても負担を最小限にしつつ、上から降ってきたものを何とか取り入れていくための現場の汗と知恵を知る思いだった。
だから、評価主体としていかに自己を立ち上げるか云々といった議論にはまったくならず。
とはいえ、教育評価についての無意識的な固定観念から脱却するのは容易なことではない、ということがよく分かって、それはそれで収穫だった。課題も少しずつ見えてきた。
ペーパー試験一辺倒から、ポートフォリオ評価やパフォーマンス評価も含めた多元的評価になったとしても、教員がメタ的な視点から絶えず評価の仕方を検証するという発想と実践がないと、すぐに歪んだ対策が蔓延することになる。
評価とともに従来の生徒・学生にとってひたすら受け身で主体的に関われないものがある。それは校則やルールである。最近でこそルールメイキングとか、主権者教育とか言われるが、久しくルールは作るものではなく守るものであった。
だが、そうした教育が「ルールだから守れ」という教条主義を生み出す。よき生やよき社会の実現のためにこそルールはあるもの。必要ないルール、時代にそぐわないルールは変えていくか撤廃していく必要がある。もちろん新たなルールを作る必要も。
そこから、ルールがあれば遵守、ルールがなければ自由という単純な二項対立図式も生じてくる。現実世界は慣習や文化や倫理や徳など複雑かつ重層的に人を縛る。そうした多角的な視点抜きに一面的にルールを守らない者はけしからんなどと言うから、世の中息苦しくなる。
監視と検閲に心血を注ぐ他罰的な者たちからなる社会というものは、ちょっと想像するだけでも自分の首を締めるディストピアであることを早い段階から教える必要がある。
「公正世界信念」が人を思考停止させるのだとすれば、言葉が人を動かすことを信じ、倦まず弛まず他者を信頼する言葉を語り続けることこそが、相互の思考を促進するはずだ。

@yukylab 午後9:45 · 2021年7月8日

「ルーブリック3.0」/ピアノ教育とキャリアパス【過去ログ整理】 2021.05.27,06.15

■「ルーブリック2.0」と「ルーブリック3.0」

教師が生徒学生を評価する道具として認知されたルーブリックが「ルーブリック1.0」なら、生徒学生もまた教員とともにルーブリックを作り評価する共同主観性の一翼を担うのが「ルーブリック2.0」。
そして、学校教育の文脈を脱却して、人が日々実践している評価→判断→選択という行為を言語化、意識化するツールとして一般に普及するのが「ルーブリック3.0」。……ってところか(←広がる妄想と野望)

@yukylab 午後10:02 · 2021年5月27日

 

■ピアノ教室の教育とキャリアパス
教える-学ぶ関係の根源性と遍在性に気づくとき、そこにはフィードバックがかかってくる。つまり教えたことを学んでくれたのか?という懐疑と応答である。この関係が異質な他者への「命がけの飛躍」であればこそ、このフィードバックは重要である。
ピアノ教室の発表会は、おそらく僕の子ども時代のものを踏襲したスタイルで、それはそれで懐かしいし昔を思い出して子どもたちの緊張感に共感したりするのだが、やはり時代も教育環境も大きく変わる中で旧態依然としたものを感じざるを得ない。
プロのビアにストを目指すキャリアパスを前提にした正統派音楽会スタイルは、子どもが音楽する喜びを感じる場となるより、むしろ子どもが音楽嫌い、ピアノ嫌いになる場をせっせと作っているようで、聴いていてちょっと辛いものがあった。
それはあたかも文学部哲学専攻の教育が、プロの哲学研究者養成を前提としたプログラムになっていて、9割以上の学生のキャリアパスを無視して行われていたような感じである。大学の哲学研究者もピアノ教室の先生もそのキャリアしか知らないから当然かも知れないが。
哲学については、哲学カフェ、哲学対話等の場が活況を呈していて、オンライン上でも多くの人に広がっている。
これに対して、音楽教室はどうだろうか? アマチュアのための音楽を掲げて、クラシック音楽の正統性にこだわらず、抜本的にピアノ教育を見直す動きがあるのだろうか?
言うまでもなく、アマチュアとはプロより下手な人ということではない。愛する人という意味である。場合によってはプロ以上に音楽を愛するゆえに、かえって聴く人の心を大きく動かすことがあるのがアマチュアの音楽だ。
@yukylab 午後9:15 · 2021年6月15日

 

 

読解経験の創造性 【過去ログ整理】 2021.05.16

そうか! 読解とは経験だということ。読解とは客観的なテクストの受動的再生ではなく、読解経験なのだ。それゆえ、経験を言語化する必要がある。言葉で「語る」必要がある。そして通常の客観テストで行われる読解の評価も、本来は読解経験の言語化の一つとして捉え直す必要がある。
別言しよう。それは作者によって「語られた言葉」の再現では決してなく、読解という経験の主体による「語る言葉」なのだ。その能動性をしかと認めないといけない。

@yukylab 午後3:08 · 2021年5月16日

*「語る言葉」「語られた言葉」=メルロ=ポンティの概念。「語る言葉」とは言語の創造的側面、新しい世界分節を生み出す言葉。「語られた言葉」とは既存の言語の画一的側面、ステレオタイプな言葉の使用。

「分かり合えない」ことから/ソシュールのインパクト/性スペクトラムと言語 【過去ログ整理】 2021.04.27,28

■「分かり合えない」という初期設定
「分かり合える」ではなく、「分かり合えない」という前提からスタートすること。分かり合えることはひとつの奇跡である。それはマルクスの言う「命がけの飛躍」だから。
@yukylab 午後2:26 · 2021年4月27日

 

ソシュールインパク
ソシュールインパクトの肝は、言語は無底だということだ。何の根拠もないところから言語が生まれた。言語が真なる世界の構造と一致しているということ、そして学問が厳密な論理に従って体系を構築すればその真なる世界を表現できるかもしれないという楽観主義を木端微塵にしたところだ。
@yukylab 午後2:44 · 2021年4月27日

 

■性スペクトラムと言語
男/女という二項対立が自明視されていた時代から、性的マイノリティへの不当な差別が認識される時代になり、さらにいまや生物学から「性スペクトラム」という概念が提起されるに至る。言語による概念規定がいかに恣意的であるか、政治的であるか、そして固定観念に結びつきやすいかを考える好例。
@yukylab 午前10:45 · 2021年4月28日

物象化・コンピテンシー・対人関係ゲーム 【過去ログ整理】2021.04.13,22

■個人に内在する能力という幻想

実験室の中で構成されたデータをエビデンスと称し、社会的に要請された「能力」という抽象的な概念を、さも実在するかのように物象化し、その過多を競うようなテストが独り歩きを始める。
一部の人間科学は、そうやって権益を拡張し、今日の膨大な研究成果をもたらし、それが教育実践の場でも、教育評価の場でも多大な影響を及ぼすほどになった。
ここで立ち止まって、多様な諸能力が個々人に内在し、それを測定したり育成したりできる、という楽観的な見通しに対して、それを相対化する視座をもつことにも意味があるのではないか。
@yukylab 午前1:09 · 2021年4月13日

 

コンピテンシーは対人関係ゲームなのか?

何でも〇〇力になる時代。「挨拶力」「感謝力」にはさすがに違和感が高まる。挨拶や感謝が個人技法に堕したとき、大切な何かが失われる。挨拶や感謝の言葉がすぐに出てくるのは社交性があっていいことかもしれないが、その背後の打算があまりに見え透いていると、しらけざるをえない。
さて、では汎用的な能力とされるコンピテンシーは、そうした違和感とは無縁なものと言い切れるのだろうか? 
打算も含めて現代社会は洗練された対人関係のゲームで成り立っている以上、こうした諸力を身につけることが不可欠だということだろうか? そのゲームに乗る/乗らないの自由は?
@yukylab 午後9:46 · 2021年4月22日

 

エロスとしての学問/学習履歴の常時観測/学問が「遊び」でなくなる日 【過去ログ整理】2021.04.04-07

■エロスとしての学問
一部の人文系の大学教員がなぜ、3ポリやカリマネを軽蔑するのか考えてみたのだが、人文系は目的合理性を求めるような学問とは本質的に異質だからではないか。
むしろ、そうした目的設定をした途端にウソになるようなもの、手段―目的連鎖に収まりきらないエロスのような学問への内的衝迫を抱えていて、その抗しがたい力に巻き込まれている変人の方々だからではないか(^O^)v
そういう変人がなんとも愛おしく感じられる今日このごろでございます。
@yukylab 午後9:42 · 2021年4月4日

*3ポリ=DP.CP.AP
DP(Diploma Policy)=卒業認定方針
CP(Curriculum Policy)=教育課程編成方針
AP(Admission Policy)=入学条件方針

*カリマネ=カリキュラム・マネージメント


■学習履歴の常時観測
学校歴から学習歴へ。定点観測から常時観測へ。学習評価のあり方を根本から変える可能性がブロックチェーンにはある。ただ、常時、学習履歴をとるというのは、当人の同意の如何に関わらず倫理的に許されるのか、という問題がある。目下思索中。
@yukylab 午後10:55 · 2021年4月6日

 

■学問が「遊び」でなくなるとき
学問が「遊び」じゃなくなったとき、管理と萎縮が創造性を枯渇させる。本気で徹底的に「遊ぶ」(しかもそれは既成の価値の基盤を揺るがす)ところにこそ、ホモ・ルーデンスの凄みがある。
@yukylab 午前3:57 · 2021年4月7日

学歴社会から学習歴社会へ ―学びつつ教えることの常態化― 【過去ログ整理】2021.03.29

今日はELFでClubhouseを開きました。
で、次のような結論に。学歴社会から学習歴社会へと移行する未来は、属人的な学びがふつうになる。と同時に学ぶ人/教える人を分ける意味が失われる。人はみな学びつつ教えることを常態化するようになる。それが経歴になる。
考えてみれば、研究と教育の一致という大学教員の理念もまた、学びつつ教えるという原点を示している。
太古から、ずっと人はそうして学んできた。ところが近代の産業社会と国民国家が学校という制度を生み出し、教えることを生業とする教師とその教師から一斉授業を受ける生徒を生み出した。それは近代社会の特異現象のひとつである。
ただし、学習には個別最適化という面と協働性/共同性という面がある。学び合う者が互いに緩やかにコミュニティをつくる必要はたしかにあり、その意味での学校は必要である(現在の学校とは大きく異なったものになるだろうが)。
もう一点。高等教育で専門的な教育が進めば進むほど、むしろ教養教育が必要になる。高度教養教育である。このプログラムがどうあるべきかは多面的に検討される余地があるかと思う。そんな話をClubhouseでした。

@yukylab 午後11:41 · 2021年3月29日

*ELF=「Enjoy Learning Forum 東北」という教育の実践的研究会。竹内が世話人を務める。