靴底感覚

――竹内幸哉の研究日誌――

「教えつつ学ぶ人」を養成する場所としての学校、そしてラーナー・ティーチング 【過去ログ整理】2018.11.25

西郷どん』で、不平不満の山積する鹿児島の士族を鎮めるため、西郷は学校創建に乗り出す。これを見ていて思ったことは、教えるという立場に立つことを経験するということは自尊感情を傷つけない、いや高めるためにとても意味のあることかと。

ここからは『西郷どん』を離れるのだが、人は誰かに対して何かを教えるためには「ちゃんとしなくちゃ」って思うわけで、僕なんかもまったく教育などに興味のないまま予備校講師になったものの、なってからは「ちゃんとしなくちゃ」って思うようになった。

ある種の社会性を遅まきながら身につけなくちゃ、と思うようになった。実は近代社会になるまでは誰もが年下の者に教える経験をもっていたはず。それを近代社会は特権的に学校という場の先生の専門的な仕事にしただけ。

「教える―学ぶ関係」こそ人間関係にとって本質的だと言ったのはたしか柄谷行人だったか。その通りだと思う。たとえ対等なコミュニケーションの場であっても、その場が有意義であるとすれば、そこに「教える―学ぶ関係」があったはずだ。

アクティブラーニング運動を推進する立場からは、ときどきティーチング・パラダイムからラーニング・パラダイムへの価値転換が強調されるが(私も強調してきた)、ここで再考すべきは、教える専門人と学ぶ専門人の垣根を取っ払い、教えつつ学ぶ人として学校空間を見直してみることではないか。

学生をアクティブラーナー(主体的な学び手)にすることが大事だという。そのとおりだが、それだけではない。教室にいるのは教えつつ学ぶ者たち。その中で教師の役割は教えつつ学ぶ先輩も兼ねるという点にある。アクティブラーナーにとって本質的なのは、ラーナー・ティーチングなのだ。

@yukylab 午後11:42 · 2018年11月25日-