2022-11-01から1ヶ月間の記事一覧
詰め込み教育だとか知識注入型だとか言われインプット中心の学びは蔑まれて久しい。何のために覚えるのか、大人になって忘れるじゃないか、ネットで調べればいいからスマホ時代には即していない、と。同意できる面があるし、アクティブラーニングを推進する…
はやぶさ2のプロジェクト・マネージャーの津田さんがNHKの「クローズアップ現代+」で話していたことは、チームビルディングにとってたいへん示唆的だと思った。キーワードは「失敗経験」「場外乱闘」。「失敗経験」は、失敗を経験した人をメンバーとして選…
「人は哲学を学ぶことはできない。ただ哲学することを学びうるのみである」とはカントの言葉だが、今日はこの言葉について考えさせられた。今日の授業「哲学する人間」はヴィトゲンシュタイン前期思想と論理実証主義の違い、そしてヴィトゲンシュタイン後期…
SNSへの警戒心の高さ 学生のレポートを読んでいてなるほどと思ったのは、SNSに対する恐怖心や警戒心が非常に強いということ。これはメディアリテラシーなど教育の賜であろうが、過度に警戒することは、コロナ禍での情報収集や発信の機会を逃し、経験から…
大学受験とは、まずもって大学の側に、次に社会の側に自分を折り合わせていく人生のプロジェクト。進路選択、つまり進む学部や学科を選ぶということ自体が、一人一人違うはずの個人が大学や社会の側に取り込まれることを意味する。制度に適応するということ…
オンラインという新しいコミュニケーション様式 ここのところ、教員のオンラインイベントに参加して、いつも考えさせられることは、対面的なリアルコミュニケーションをデフォルトとすべきなのかということ。声、顔、仮面、アバター、バーチャル背景……こうし…
withコロナの状況が長く続く中、場所としての学校の役割が大きな曲がり角に差し掛かっているということをずっと考えてきたのだけれど、いま考えているのは専門家として教員の役割も転換点に差し掛かっているということ。長期的な視点から見たとき、制度とし…
ジェネリックスキル的な教育を推進する側にいたわけだが、その負の側面についてよくよく考えてみるべきだとずっと思ってきた。時代の変化に対応できるようなハイスペックな社会人になるべく、自己のスキルを磨こう! というのがジェネリックスキル推進の陳腐…
浜松の高校生のリフレクション力にはいつもたじたじである。ふり返りだけで20分ぐらい使って、B5判白紙にびっしりと書いてくる。中には裏までびっしり書いてまだ足りない生徒もいる。最初はふり返る内容について質問文を用意してリフレクションシートを印刷…
脱魔術化された大学飲食店がテイクアウトになって街や店の雰囲気や容器や家具・照明といった背景が脱魔術化されるのと同様に、大学がオンライン授業化して有形無形の文脈的側面(場所・校舎やキャンパスの雰囲気・ブランド…)が脱魔術化されるのかもしれない。…
大学でのオンライン授業開始一週間。とかく対面授業での代替手段と捉えられがちだが、新しい可能性を感じたのでブレスト的に書いてみる。 ・学生との距離感がとても近い。彼らは基本顔は出さないが、何か発言を求めればチャットでどんどん返してくれる。タイ…
管理-抑圧的リーダーシップは他人を信じてない。自分が一番賢くて、自分の判断の正しさに1mmのゆらぎもない。一方、協調-共創的リーダーシップは、他人を信じて託すことができるし、自分の判断が誤りうることが分かっているので、メンバーの意見に耳を傾ける…
自宅待機要請が続くなか、オンラインで学びの場をどう作るかが喫緊の課題でして、ただいま試行錯誤中です。録画による動画配信授業やzoomによる双方向授業を経験しましたが、そこで私はライブ感と教員の身体性を大事にしてきました。ライブ感というのは、普…
ポスト・コロナ禍のことを考えている。授業のICT化が一層進むとか、仕事のテレワーク化が一層進むとか、アクティブラーニングが衰退するとか、そうしたことも大切だが、いま考えているのはそうしたことではない。そもそも学校で集団が一斉に学ぶことの意義、…
対人コンピテンシーは大人になってから成長するのか?コンピテンシーは大学生になってから伸ばすのは難しいから、高校生までに、いやもっと早い段階から伸ばしてやるべきである、そんな論調が高まっていて、アクティブラーニングやジェネリックスキルの普及を…
教員組織が協働でカリキュラムや教材や授業を作っていくことはとても意義深い。一方で、その組織が上意下達の硬直した構造になってしまうと、現場は主体的に関われなくなる。やらされ感満載でペーパーワークに苦労するだけで消耗することになる。ボトムアッ…
主客図式、つまり主観(読み手の意見・考え)と客観(書き手の主張・テクストに書かれていること)は誰にとっても截然と切り離せるものである、という前提とした思考から逃れられないと、TAEのフェルトセンスとか、身体での前言語的な感覚から生じた「パターン」…
今の時代感覚から見て、数学の教員が数学「を」教えることしかしなかったら、ちょっと遅れているよと言いたくなる。数学「で」世界の真理に迫ることの意味やら、人間的実存が数学的世界分節を通じて生きていくことの意味やらを考えるような授業をしてほしい…
NHKスペシャル『半グレ』を見てから、ずっと考えているのは、理念なしのジェネリックスキル養成は、ときにおぞましい帰結となるということ。京都の高偏差値、有名大学の学生が、半グレ組織の末端として犯罪に手を染めていた事実は衝撃的。 ここには専門分化…
言語を伝達手段としてのみ考える場合が多いけど、言語には世界を創る側面があり、そっちの方がはるかに重要だと思う。いわゆる伝達の手段としての言語と区別して「世界制作語」「世界構築語」あるいは「自分世界語」というネーミングをしたらどうかと思って…
三つの元号を生きることになる自分について、ちょっとした驚きを記したところ、93歳から30歳までみんな三元号だと笑われたのだが、そんな知識を披瀝されたところで困ってしまう。なぜなら、大事なのは僕の感じたことを言語化することだからだ。 出身地や居住…
シェア精神という研究者の良質な倫理観 学者の世界が面白いのは、非常に権威主義的側面がある一方で、フェアプレイでいこうとする良質な倫理観が活きているところ。教育関係者や研究者と接していていつも感じるが、基本的に何でも無償でシェアして社会や共同…
メルロ=ポンティとレヴィナス。前者の「間身体性」概念から、他者との親和性や信頼関係の構築への希望を、後者の「他者」概念から、他者との絶対的隔絶性や他者への畏れを、僕は学んだように思う。 教育の矛盾は詰まるところ、絶対的に隔絶されている異他的…
ポストフォーディズム的な労働環境を生きているという俯瞰的視座をもつと、一日中動員されているんだなと実感が湧く。だがこれに抵抗する術はあるのか? 精神の自由な領域を確保して自己の固有性を生きるためには、まずは時間が必要である。思考の自律性のた…
技に溺れる 技に溺れるというか、策を弄するというか、そういう事象を教育現場でもそこここで見聞きするようになってきた。盛り上がるワークやインスタ映えする教室風景など表面的結果だけ見て満足してはいけない。技法の切れ味の魅力に取り憑かれて、何でも…
最近考えているのは、ブルデューの文化的再生産概念。支配的な階級の文化が学校教育を通じて再生産されるという面と、それに対する抵抗文化が生じるという二面性があるとして、入試というのは有無を言わせずに支配階級の文化を正解とする世界だということは…
「ミネルヴァの梟は迫り来る黄昏に飛び立つ」と言われる。この「黄昏」が古い時代の終わる前に新しい時代に先駆ける哲学の意なのか、現代が終わろうとするとき時代を俯瞰、総括してその意味を問う哲学なのかは、意見が分かれるところかもしれない。 ただ現在…
昨日、今日は予備校での2学期最終講義。いま学んでいる教材が、学問・社会・人生とどうつながるかを考えることが予備校でのキャリア教育になるのかな……などと今まで考えてもみなかったことをつらつらと考える。 昨日扱ったのは黒井千次の小説。70歳の男性が…
村上陽一郎は、個人がノモス的なものに完全に適応しきれないこと、ときにはみ出したり反発したりすること、そうした個人のあり方を「機能的な寛容さ」と言っている。 この機能的な寛容さがあるからこそ、異文化の他者を理解したりできるし、メタな次元からノ…
『西郷どん』で、不平不満の山積する鹿児島の士族を鎮めるため、西郷は学校創建に乗り出す。これを見ていて思ったことは、教えるという立場に立つことを経験するということは自尊感情を傷つけない、いや高めるためにとても意味のあることかと。 ここからは『…