靴底感覚

――竹内幸哉の研究日誌――

ジェネリックスキル批判 【過去ログ整理】2020.07.12

ジェネリックスキル的な教育を推進する側にいたわけだが、その負の側面についてよくよく考えてみるべきだとずっと思ってきた。時代の変化に対応できるようなハイスペックな社会人になるべく、自己のスキルを磨こう! というのがジェネリックスキル推進の陳腐な思想である。
たしかに社会の変化は凄まじいし、流れに乗ることも大事なのかもしれない。だが、乗れない人もいるし、変化しなくてもいい人もいるし、必死に乗ろうとして生きづらくて死にたくなる人もいる。社会の変化に乗ることはそれほど強く推奨されることなのか?
そこには一大学の生き残りとか、一企業の生産性向上とか、一国の経済成長とか、そうした思惑が込められていて、そこから降りる人、距離をとりたい人、いやそのパラダイムを批判する人をはじめから前提としていない偏狭さが透かし見える。
ジェネリックスキルでも、資質・能力でもいいのだが、それらを言葉で名指し、経験を通じてその高低を評価し、ふり返ってより成長するという経験学習のサイクルは、とても健全ですばらしいと思う。
だが、経験自体から生まれてくる言葉と、経験以前にカテゴライズされ、社会から要請される資質・能力を示す言葉(ジェネリックスキルの能力要素)は区別すべきだと思う。
経験から学ぶことが、すでにリストアップされている能力要素に関するものばかりでは、面白くもなんともないし、もったいないと思う。
人格や個性、パーソナリティといったものとは無関係に、だれもが後天的に身につけることができるものという前提がジェネリックスキルにはあるわけだが、実際には、ジェネリックスキルは人格や個性と分かちがたく結びついているはずである。
とすれば、人格的な陶冶と無関係にジェネリックスキルの習得はできないはずである。それは教育現場の伝統のなかでは、多くの条件が満たされてはじめて、そしてかなり慎重に行われてきたことである。

@yukylab 午前3:40 · 2020年7月12日

ジェネリックスキル=汎用的な資質・能力。たとえば、経済産業省の「社会人基礎力」や内閣府の「人間力文科省の「学士力」など。21世紀以降、OECD諸国で重視されてきた「コンピテンシー・ベース」の教育のなかで推奨され、日本でもその導入が叫ばれている。