靴底感覚

――竹内幸哉の研究日誌――

大学生に求めたい自己追求モード 【過去ログ整理】2020.08.22

大学受験とは、まずもって大学の側に、次に社会の側に自分を折り合わせていく人生のプロジェクト。進路選択、つまり進む学部や学科を選ぶということ自体が、一人一人違うはずの個人が大学や社会の側に取り込まれることを意味する。制度に適応するということ。
だが、そもそも個が主体的に自分の人生を自分のために構築していく以上、制度に取り込まれ得ない自分固有の領域を個人が自分で育てていくことは、最も重要な人生のプロジェクトである。実存的な自己を追求すること、とでも言おうか。
もちろん、制度から外れて実存的な自己を追求し過ぎれば社会的な不適応を起こす。が、逆に、制度に過剰適応しても窮屈で味気ない人生となる。そこで2つの志向の折り合いをつけることを学んでいくのが人生という場となる。
社会的な自己を内面化し、すでに制度に染まりきっているように見える大人であっても、実存的な自己はその独自世界をより強く大きく形成しているので、両者は矛盾・葛藤・軋轢をもって絶えず拮抗しているように思われる。


従来的な意味で、大学受験勉強に専念することは、大枠では実存的な自己の志向を選択したうえで、大学という制度側の求める能力へと自らをチューニングし、トレーニングしていくことを意味する。
高校でも塾・予備校でも、生徒の志望する大学という進路が実現する可能性を高めるために、受験教科・科目を中心とした指導が行われるが、それは大学受験への適応トレーニング(大学での学問に適応できるかどうかは別にして)ということである。
さて、大学という場は、制度に取り込む面と実存的な自己を追求する面の両方をバランスよく高めることが期待されている場である。前者は主に大学が提供する教育であり、後者は学生が主体的に活動する課外活動(サークル・ボランティア・自主ゼミ)である。
大学が提供する授業プログラムと、学生が個人として自分らしさを追求する場面と、そのバランスを工夫しながら見出していくのが大学生活の醍醐味だった。


ところが、その一方が機能不全に陥っているのが、現在のコロナ禍の大学である。
この4月に入学した大学1年生の場合、ことは深刻で入試以来一度も大学に行けない、一人の友人もできないという学生も少なくない。一方で、授業のオンライン化に伴って、LMSやeポートフォリオによる学修状況のデジタル管理が進行している。
この4月に入学した大学1年生の場合、ことは深刻で入試以来一度も大学に行けない、一人の友人もできないという学生も少なくない。一方で、授業のオンライン化に伴って、LMSやeポートフォリオによる学修状況のデジタル管理が進行している。
突如として生じたコロナ禍によって、この4月以降、2つのベクトルのバランスが完全に崩れてしまった。制度への適応面だけが、「純粋」な形で成果を挙げやすい状況が構築されつつあるのが現在の大学ではないだろうか。
オンライン授業「のみ」で学ぶということは、大学という場を脱魔術化し、「純粋」に学問的な空間に変容させる。それは「今年は我が子がよく学んでいる」「今年の学生はいいレポートを書いている」という評価につながる成果であり、文科省が推進する大学改革や質保証にもつながるメリットではある。
だが、適応モード中心で受験勉強を強いられてきた高校生が、大学に入学するや今度はまったく新しいオンライン学習環境への適応を強いられるというのは、(一部リテラシーの高い者を除いて)かなりストレスのかかる状況である。

もっとも、オンライン環境は教員も学生と共にゼロから適応していくしかない。また、学生の方が教員よりも高いリテラシーをもっていることもままあり、その意味では教員と学生のフラットな関係性が構築される可能性もある。オンライン学習には他にも多くの長所を見出すことができることは付記したい。


これまで話を単純化して、授業=制度への適応、課外活動=実存的自己の追求、という二項対立で語ってきた。だが、察しのいい人はお分かりのとおり、実は授業でも実存的自己を追求することは可能であるし、また、課外活動でも制度への適応を学ぶ場面は多々ある。
そこにこそコロナ禍以降の教育の可能性があるように思われる。つまりオンラインで、パーソナル支援やPBLやチームビルディングの可能性は追求されてよい。一方で課外学習の場は、まさに学生自らが主体になって空間としての大学から切り離して新しく創り出していく文化になればいい。

 

こんなことを長々と書いてきたのは、適応モード一辺倒だった高校生から、自己追求モードを組み込んだ大学生になってほしいからだ。
もっと言えば、ひたすら制度や社会にとって都合のいい人間にされるのを拒んで、社会との折り合いをつけつつも、「わがまま」を追求できる人となってほしいと思う。こんな鬱陶しい時代だからこそなおのことそう思う。一度しかない人生、自分の足で歩みを進めていきたいと自分にも言い聞かせている。

@yukylab 午後5:53 · 2020年8月22日

新しいコミュニケーション様式/オンライン授業はテレワークではない 【過去ログ整理】2020.08.10

オンラインという新しいコミュニケーション様式

ここのところ、教員のオンラインイベントに参加して、いつも考えさせられることは、対面的なリアルコミュニケーションをデフォルトとすべきなのかということ。声、顔、仮面、アバター、バーチャル背景……こうした選択肢をはじめてもつことが許されるのがオンライン・コミュニケーションの面白さ。
オンラインは不自由という発想はデフォルト・リアルが前提。そこを一旦括弧に入れて考えてみると、オンラインの方が確実に活き活きできる学生も少なからずいるという点に注目したい。リアルの不自由さを教えてくれるから。
リアルが相対化されれば、オンラインは新しいコミュニケーションの様式を人類にもたらす可能性がある。そのときのマナーやルールも、これから多くの人が試行錯誤を重ねる中で、また技術の進展とともに慣習化し、変化していくわけだが。オンライン社交文化はまだ緒についたばかり。

@yukylab 午前1:14 · 2020年8月10日

 

テレワークアプリをオンライン授業に転用することの危うさ

オンライン授業の広まりは、単に授業形態の変化(それ自体革命的ではあるが)にとどまるものではない。管理、監視ができる。録画、入退室記録、管理職教員の授業視察…… 教員による学生管理にも、管理職による教員管理にも使える。だが、できることとやっていいことは違う。
オンライン授業アプリは、テレワーク用に開発したアプリを授業に使っている場合も多い。開発思想の中心を占める効率や生産性は、必ずしも教育現場にマッチしているわけではない。失敗の許される環境、のびのびと学べる状況、何よりワクワク楽しめる授業をシステムが脅かしてはならない。

@yukylab 午前9:27 · 2020年8月15日

近代的な学校と教員は役割を終えるのか? 【過去ログ整理】2020.07.23

withコロナの状況が長く続く中、場所としての学校の役割が大きな曲がり角に差し掛かっているということをずっと考えてきたのだけれど、いま考えているのは専門家として教員の役割も転換点に差し掛かっているということ。
長期的な視点から見たとき、制度としての学校や専門職としての教員は近代という時代に必要不可欠ではあったにせよ、そろそろ賞味期限切れに達する、歴史的使命を全うして。そしてどこでも学校誰でも教員の時代となる。
長期的な視点から見たとき、制度としての学校や専門職としての教員は近代という時代に必要不可欠ではあったにせよ、そろそろ賞味期限切れに達する、歴史的使命を全うして。そしてどこでも学校誰でも教員の時代となる。
かつて人類がずっとそうであったように、教える-学ぶという関係性がそこここで起きるということである。ただかつてと違うのは、通信環境の飛躍的進歩とともに、教える-学ぶコミュニケーションが、汎時的に場所を超えて起きるという事態である。
人生の一時期に一斉に同じ場所に集合し、なぜか同じ年齢の者が同じ内容を同じ速さで学習する。そして放課後にはなぜか部活動を積極的に行うことが強く推奨され、時々行事が一斉に行われて参加することが自明視される。そのための場所が学校でそこでの仕事が教員。実に不思議な光景ではないか?

@yukylab 午前11:47 · 2020年7月23日

ジェネリックスキル批判 【過去ログ整理】2020.07.12

ジェネリックスキル的な教育を推進する側にいたわけだが、その負の側面についてよくよく考えてみるべきだとずっと思ってきた。時代の変化に対応できるようなハイスペックな社会人になるべく、自己のスキルを磨こう! というのがジェネリックスキル推進の陳腐な思想である。
たしかに社会の変化は凄まじいし、流れに乗ることも大事なのかもしれない。だが、乗れない人もいるし、変化しなくてもいい人もいるし、必死に乗ろうとして生きづらくて死にたくなる人もいる。社会の変化に乗ることはそれほど強く推奨されることなのか?
そこには一大学の生き残りとか、一企業の生産性向上とか、一国の経済成長とか、そうした思惑が込められていて、そこから降りる人、距離をとりたい人、いやそのパラダイムを批判する人をはじめから前提としていない偏狭さが透かし見える。
ジェネリックスキルでも、資質・能力でもいいのだが、それらを言葉で名指し、経験を通じてその高低を評価し、ふり返ってより成長するという経験学習のサイクルは、とても健全ですばらしいと思う。
だが、経験自体から生まれてくる言葉と、経験以前にカテゴライズされ、社会から要請される資質・能力を示す言葉(ジェネリックスキルの能力要素)は区別すべきだと思う。
経験から学ぶことが、すでにリストアップされている能力要素に関するものばかりでは、面白くもなんともないし、もったいないと思う。
人格や個性、パーソナリティといったものとは無関係に、だれもが後天的に身につけることができるものという前提がジェネリックスキルにはあるわけだが、実際には、ジェネリックスキルは人格や個性と分かちがたく結びついているはずである。
とすれば、人格的な陶冶と無関係にジェネリックスキルの習得はできないはずである。それは教育現場の伝統のなかでは、多くの条件が満たされてはじめて、そしてかなり慎重に行われてきたことである。

@yukylab 午前3:40 · 2020年7月12日

ジェネリックスキル=汎用的な資質・能力。たとえば、経済産業省の「社会人基礎力」や内閣府の「人間力文科省の「学士力」など。21世紀以降、OECD諸国で重視されてきた「コンピテンシー・ベース」の教育のなかで推奨され、日本でもその導入が叫ばれている。

浜松の高校生のふり返りシート 【過去ログ整理】2020.07.02

浜松の高校生のリフレクション力にはいつもたじたじである。ふり返りだけで20分ぐらい使って、B5判白紙にびっしりと書いてくる。中には裏までびっしり書いてまだ足りない生徒もいる。
最初はふり返る内容について質問文を用意してリフレクションシートを印刷しようかとも思っていた。ところが初講日に作成を失念してしまい、その場しのぎで白紙を用意した。ところが、白紙の方が実は自由に好きなことが書けるということが分かった。それで今でも白紙に書いてもらっている。
リフレクションとして提示するのは、読み方・解き方と、文章の内容の二つ。でもそれだけでなく、本文の解釈に関すること、開始時のトークに関すること、ペアワークで友人から学んだこと、自分の解答のプロセスや意図などさまざま。文章を自分と関わらせて論じるなど小論文的なことを書く生徒も。

*ちなみに2022年のいまでは、書き易さや読み易さなどを考慮して、専用のふり返りシートを印刷して配布、回収している。いろいろ試行錯誤する。

@yukylab 午後11:50 · 2020年7月2日

脱魔術化された大学/今必要な「教える―学ぶ」関係/オンライン授業一ヶ月 【過去ログ整理】2020.05.23-06.07

脱魔術化された大学
飲食店がテイクアウトになって街や店の雰囲気や容器や家具・照明といった背景が脱魔術化されるのと同様に、大学がオンライン授業化して有形無形の文脈的側面(場所・校舎やキャンパスの雰囲気・ブランド…)が脱魔術化されるのかもしれない。

@yukylab 午後10:18 · 2020年5月23日


今だから必要な「教える―学ぶ」タテの関係性
柄谷行人の慧眼が思い出されるのだが、人間のコミュニケーションの基本とは、対等な関係性の話し合いではなく、実は「教える―学ぶ」関係性だという。これは意表を突かれる思いであるが、大人の対人関係からみると「学ぶ」姿勢をいかに維持し続けるかの困難さが透かし見える言葉である。
封建的な上下関係が過去のものとなった今の時代だからこそ、「教える―学ぶ関係」というタテの関係性を「学び手」として作り続けることができるかが問われているように思う。師をもつことの贅沢さを思う。

@yukylab 午後10:04 · 2020年6月2日


オンライン授業を一ヶ月やって分かったこと
オンライン授業も一ヶ月が経過。通常のライブ授業と比べて教員とのインタラクションは高まるが、学生間のインタラクションは難しいという特徴がはっきりした。
この点、まったく大学に通っていない1年次生と、すでに対人関係ができている2年次以上の場合とではまったく状況が異なる。
僕が担当しているのは1年次生。ある授業では、果敢にオンラインでゼロから学生同士で関係を作っていくことにチャレンジしている。まだ結果は分からないが、直感的にはかなり難しいと思われる。学修成果を共有するならまだしも、協働して何かを生み出すのはハードルが高い。
ただもう少し、オンライン特有のコミュニケーションに慣れてくれば事情は変わってくるかもしれない。学生はデジタルネイティブだし、柔軟な対応力をもっているし。技術的な問題は習うより慣れろだし。

@yukylab 午後11:57 · 2020年6月7日

オンライン授業を始めて分かってきたこと【過去ログ整理】2020.05.16

大学でのオンライン授業開始一週間。とかく対面授業での代替手段と捉えられがちだが、新しい可能性を感じたのでブレスト的に書いてみる。

 

・学生との距離感がとても近い。彼らは基本顔は出さないが、何か発言を求めればチャットでどんどん返してくれる。タイムラインは怒涛の流れで追いきれないほど。
・90人ほどのクラスだが、チャットでの情報共有によって、学生間でお互いにどんな仲間がいるのかが言語情報的に可視化される。また異なった立場や観点から意見を出してくれるので多様性があるし、他の学生のコメントから学ぶ機会が多くある。
・そういう意味では90人がひとグループになったグループワークをしている感覚。対面授業では5〜6人が限度だが。
・もちろんそこには難点もある。やはり書くときに言葉を選んで、注意深く発言しないといけないと感じている学生もいるし、ある種、無言の同調圧力を感じてしまう学生もいるようだ。
・当たり前のことだが、学生間のやりとりには身体性が完全に欠落している。声、表情、抑揚、その人の醸し出す雰囲気、ファッション、そうした感覚的、感情的要素をすべて欠いたまま、言語的にやりとりするしかない。
・一方で、教員やチューターの身体は晒される。その表情や部屋の背景など、リアル授業ではすぐに飽きるもの、遠くで慌ただしく動く教員の身体(といっても上半身だが)が間近で凝視される。目線やら髭やらもバッチリ見えてしまうだろう。
・去年まで『螢雪時代』の連載記事で付録の音声講義を毎月収録していたが、それと近いものがある。ただ学生からどんどんチャットでコメントが入る点で言えば、ラジオ番組のDJが近いと思う。このやりとりは端的に楽しい。面白い。
情報リテラシーは千差万別。なかなかうまく入力できない学生もいる。あるいは、提出物をポートフォリオにアップできないとか、アップはしたものの書いた内容がすべて消えてしまうとか。
・そういうときに、うまくいった学生がこうすればいい、とアドバイスしてくれることがある。これは嬉しい。
・システム的には結構複雑で、デジタル・ネイティブの彼らにとっても戸惑うことだらけ。もちろん情報弱者の僕もたいへん。さらに運用を始めたばかりのポートフォリオも問題山積。学生側の問題か、大学のシステム側の問題か、不具合の原因が分からない場合も散見される。
・学生が話しかけるハードルがかなり低いらしく、トラブルや不具合で質問されることが多々ある。その対応に忙殺される。本来教員は教材を作ったり、学生のふり返りを読んだりする時間をしっかりとりたいところ。
・授業の運営システムが複雑なので、とにかく雑事に時間をとられる。これで持続可能か?
・オンライン環境で教員と学生の距離が近くなったのはいいとして、さて学生同士はというと、なかなか仲間づくり、友人づくりができないという難点がある。
・学生は基本音声もカメラもオフ状態で授業は終わる。テレビを見ながら、知らない誰かとLINEしているような感覚だろうか。
・外面性を非常に気にする学生たちにとって、オンライン環境は救いと点もある。
・逆に家庭とは地続き、というか、まさに家庭の中で授業を受けるので、家族との関係性を断ち切ったところで大学デビューするのは難しいのかもしれない。若い頃は家族から距離を置いて自我形成していく重要な時期であるだけにそう思う。

 

大学に行ったのは入学式のみ。あとはすべてオンラインだとすれば、友達0人というのも致し方ないとも言えるが、Zoomのブレイクアウト・セッションなどを使うことで、関係をつくっていけないかとと思っている。

@yukylab 午前3:33 · 2020年5月16日