靴底感覚

――竹内幸哉の研究日誌――

知識注入主義教育の意外な弊害 【過去ログ整理】2019.05.01

三つの元号を生きることになる自分について、ちょっとした驚きを記したところ、93歳から30歳までみんな三元号だと笑われたのだが、そんな知識を披瀝されたところで困ってしまう。なぜなら、大事なのは僕の感じたことを言語化することだからだ。

出身地や居住地というものにある種の親和性とアイデンティティを感じつつ生きてきたわけですが、時間意識にも同じようなものを感じている。その変わり目に際して、改まった元号を生きることへの戸惑いと希望のようなものを記してみたかったのだが。

実存的な言葉を封殺しようとする、ある種の無神経さをもった人が教育界にも未だに多いということが残念でたまらない。特にそれが当人が専門だと思っている知識とは一見反するような実存的感慨だった場合、せっかく作られた生徒学生の経験の言語化回路が教員によって遮断されてしまうからだ。

知識注入主義教育の弊害とは、実はこんなところに現われてくる。知識注入自体は大いに必要である。だが生徒学生がある課題を自分の実存的問題、経験に即した具体的問題として捉え直そうとしているとき、その言語についてみだりに弾圧してはならないと思う。それは思想が立ち上がる貴重な瞬間だからだ。

@yukylab 午後0:26 · 2019年5月1日

*偉そうに批判していますが、僕の内部をも深く侵食している知識偏向の教育観に、今更ながら気づく今日このごろです。